霧の都、倫敦――と呼ばれるには、もう数百年ほど時が足りない。
 だが、倫敦には朝霧がかかっていた。
 視界は利かず、人の姿さえ朧。
 けれど、彼女達には都合が良かった。
 一人は夜の眷属で、日の出ているうちには人目につきたくない、と思っていて。
 一人は、あまりにその格好がひどいので、人目につきたくない、と思っていた。
「さぁ、ここがあたしの家――の別荘だ」
 リリィが、背中のフィオナに向かい、笑いかける。
 目の前にあったのは、尖塔の突き出た石造りの建物。
 片田舎で生まれ育ったフィオナなどが、今まで見たことの無いような巨大な建造物だった。
「…お城?」
「はは、フィオナは城を見た事ないか。ありゃコレよりもっとすげーぞ」
 フィオナにすれば巨大な建物だが、しかしそれは倫敦においてそう目立つほどでもない。
 実際、二階建てである。
「じゃあ、これは?」
「こいつは図書館さ」
「図書館?」
「本がいっぱいある所。まぁ、ほとんどジョンって小僧の私物だけどな。ここもジョンの家つーか倉庫だ」
 彼が誰なのかは、フィオナには分からない。
 もし事情を知っている物がいたら、あぁ、あのジョンか、と言うだろう。
 
ブラッディマリー
 流血のメアリ女王付き占星術師、ジョン・ディー。
 英国のアグリッパ、或いは英国のトルテミウス。
「あんにゃろが王室付きになったおかげで、ウチの学院は財政が潤ってな。こんなんもおっ建てた」
「学院?」
「あぁ、そうさ。ようこそ、『三重に偉大な』『盗人』ヘルメス魔術学院へ」
 図書館に入ると、直ぐに右手に従者が侍っていた。
 豪奢ではないが、こざっぱりとした服を着ている。
 その従者が、目を見開いた。
「…リアン様、その子は?」
「新しい妹だ。服を着せたい。道を開いてくれ。御覧の通り両手がふさがっちまっててな」
「13人目。大家族ですな、リアン様」
 従者は苦笑して、石の壁に手を置いた。その部分が、奥に沈む。
 どういった仕掛けか、それで床に穴があいた。
 穴の向こうには階段がある。
「うわぁ…」
「驚いたか? 魔術師ってのは隠匿が美徳だと勘違いしてんのか、単にこう言うのが好きなのか、よくあるんだ、こう言うのは」
「はぁ」
「んじゃ、院長によろしく言っといてよ、スミス」
 リリィが、スミスと呼ばれた従者にウィンクした。
 スミスは、再び苦笑。苦笑に苦笑を重ねれば、苦虫を噛み潰す顔にもなろう。
「私は言い繕いませんからね。報告だけですよ、リアン様」

 地下室を降りるリリィの背で、フィオナは呟いた。
「あの…妹って?」
「あぁ、ヴァルプルガ…お前の言う所の魔女はね、お前みたいな可愛い子が酷い目にあってるのを見つけてきては、家族にして一緒に暮らしてるんだ。…いやか?」
「ううん、そんなことない」
 帰るところを作ってやる。
 リリィは確かに、そう言ったのだ。
 それはとても嬉しい事だ。
 家族は死に、村にいられなくなったフィオナには、魔女の誘いとは言え、まるで奇跡のような物だ。
「そうか、良かった。何、ヴァルプルガにならなくったって良いんだ、アイルランドに行けばあたし達の院もある」
「…うん、ありがとう。でも、気になる事があるんです」
「何だ、言ってみろ」
 次の瞬間、フィアナの言葉は、リリィの胸を抉った。

「リリィ、私より背が低いのにお姉ちゃんって言うのは変じゃないですか?」

 身体を拭いて、フィオナに服を着せたリリィは、少し落ち込んだ。
 確かにフィオナの方が体が大きかったのである。
「まぁ…着れてるから良いわな」
 それは、およそリリィのイメージにはそぐわない、清楚な服だった。
 実は義母からの贈り物なのだが、いまいち似合っていないので袖を通した回数は少なかった。
「わたし、こんな服を着たのははじめてです」
 フィオナが着ると七分袖気味の服ではあるが、しかし気に入ったようだ。
「でも少し胸がきついです」
 リリィは大層落ち込んだ。
 だがしかし、身奇麗に整えたフィオナの姿を見ていたら、直ぐに回復した。
 有体に言うと綺麗なのである。
 服が、ではない。
 フィオナが、綺麗なのである。
 勝負をするだけ馬鹿らしいな、と思い、リリィは一人頷いた。美しい物はいいものだ、と。
 二人がいるのは、広さ10ヤード四方ほどの広い部屋だった。
 家具はベッド以外には衣装掛けがあるだけで、ほとんど何もない。
「ところで、地下を潜ったり無駄な事をしていましたけど、結局ここ、どこなんです?」
 それを聞いて、リリィは笑った。
「無駄か! ヘルメスの連中と、工房の建築家は泣くねそれを聞いたら!」
 何がおかしいのかフィオナには分からない。
 ヘルメス魔術学院の人間は大真面目にこの設計を依頼して。
 建築を請け負った工房は持てる技術を全て費やし。
 それが、年端も行かない少女に無駄、と評される皮肉。
 ――あぁ、この子の舌はナイフになるな。
 リリィは笑い涙を拭った。
「ここは学院の寄宿舎さ。あの地下道を通らないと、ここには入れないような仕組みになってる。の割には窓とかしっかりついてる辺りどうかと思うけどな」
「他にも、魔女さんたちがいるんですか?」
「他の連中をそう呼ぶとすげー怒るから気をつけろよ。…あぁ、確かにここには学院で学ぶ魔術師達が住んでる。ま、あたしはアイルランドから出張してるだけで、ここは一時の宿、なんだがね」
 一事の宿にしても生活感がなさ過ぎる、とフィオナは思ったが、しかし口に出すのを辞めた。
 きっと何か事情があるのだろう。
 それに、汚いよりは良い。
「その足に慣れて、一人出歩けるようになったら、ここだけじゃなくて学院の中も案内するさ」

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 フィオナは、一週間で歩けるようになった。
 『銀の腕』の治癒力を使えば、一年後には補助なしでも歩けるようになるだろう、と言うのがリリィの見立てだった。
 歩けるようになったフィオナは、リリィに学院の案内をされていた。
 トリスメギストス
 『三重に偉大な』ヘルメス院。
 あるいは、
 シーフ
 『盗人』ヘルメス魔術学院。
 それは寄宿舎と同じ、通常の出入り口からは入れないところに校舎がある、隠匿のマナビヤであった。
 今リリィ案内しているのは、大講堂。
 50人程が余裕を持って座れる造りになっている。流石にお貴族様の館は違う。
 ヘルメスの学生は、毎年、多くて20名ほど増え、最終的に淘汰されて約10名以下になる。現在は100名あまりの学生が籍を置いており、無理をすれば、全員詰め込めなくもない。
「ふぅん、魔術って、学校で学ぶんですね」
「そうとも限らないけどな。ヘルメスはデカいから、むしろ珍しいよ、校舎があるなんて」
「じゃあ普通はどうなんでしょうか」
「普通は師匠と弟子が工房に篭ってる、って感じだな。あたしらは違うけど」
「違うんですか」
「ヴァルプルガ…ドルイドは、もっと色んな事を学ぶんだ。それこそ、料理から建築まで」
「楽しそうですね」
「楽しいさ。…で、どうする? その、フィオナは…あたしの妹に、なるか?」
 フィオナは、少し逡巡した。
 ここ一週間、どうしようかずっと考えていた事だ。
 新しい居場所にして、無二の居場所。
 感謝はすれど、ついこの間まで見も知らぬ人間だった人を、姉とは呼び辛い。
「…いいさ、ゆっくり考えれば」
「はい、そうします」
 二人が大講堂から出たところで、リリィは自分を呼び止める声を聞いた。
 声の主は、白い髭を生やした、禿頭の老紳士だった。
「…あぁ、院長。何か用か?」
「口の利き方に気をつけろ、魔女め。スミスから話は聞いている。これ以上魔女を増やすな」
「ドルイドと言ってくれ、或いはヴァルプルガと。学識を疑われるぜ院長」
「『絶望』の真似事か。そんな事をするのはアレ一人で沢山だ。ここは学院であって孤児院ではない」
「どっかの学院が、ドルイド院を乗っ取っちゃった所為で、母様は今や長老の末席だ。忙しくて仕方がなくてね、絶望
の魔女は実質開店休業なんであたしらが代理やってんだよ。…それに、この子が妹になると決まった訳じゃない」
「乗っ取ったとは心外な。併合したのだよ」
「ヘルメスが『盗人』と呼ばれてるのを知らないのか院長。アレキサンドリアから名を奪い、ブリテンから土地を奪って
、今度はどこから何を盗むんだ?おおっと、あたし故郷のウェールズには山しかない、盗るものなんかなにもないぜ
?」
 老紳士の額に、青筋が浮く。
「…黙れ、魔女め。その娘はどの道、学院に在籍する事になるのだろう。費用はどうするのだ。奨学金泥棒のヴァル
プルガに、これ以上くれてやる金はないぞ」
 ヴァルプルガ――ドルイド院は、奨学金の狩猟者と言われるほどに、院から金を貰っている。基本的に、ドルイド院
は金を取らない。が、ヘルメスはその限りではない。だから、奨学金を得る。とは言え、それを得るためには、厳しい
審査に通らねばならない。
「姉さま達が優秀なだけさ、本物の泥棒に泥棒と言われたくないね」
 その言葉こそは、ドルイド院に在籍する学生の優秀さの証明である。
「く…大体、そのようなどこの馬の骨とも知れぬような小娘に、秘匿の学問など学べるものか」
「馬の骨? 馬の骨だと? お貴族様は流石に言う事が違う。人の力は、生まれたときに決まるのではないと心に刻
め、小僧。人は、唯人から現れて、唯人のまま唯人を超えるから人なんだ。魔術とは、そのための学問じゃないのか
?」
「黙れ、売女の魔女め! 聞く耳持たぬわ!」
「あの、よろしい、でしょうか」
 二人の口論に、フィオナが割って入った。
「何だ、小娘」
 言葉を途中で止められた院長が、不機嫌そのものといった声音で、唾を吐くように発言を促した。
「私は、帰るところがありません。親もありません。神様にまで見放されて、途方にくれていましたところを、ここに連
れてこられました。私は、院長様が、まるで聖者のように心清い方だと、学生の方々やスミスさんから聞いています」
 鈴を転がすような、涼やかな声音で訴えかけるフィオナは、まるで敬虔な修道女のようだった。
 穢れなく、美しく、慎ましい。
 それが天に見放されたとあっては、誰もが哀れむような。
「む…」
「まさかわたしは院長様がわたしを追い出すなどとは思っていませんでしたから、何の用意も御座いません。明日か
ら寒空の下で凍える事になります」
 人には良心がある。
 良心には時代性や地域性があり、時と場所で変化する物だ。
 けれど。
 卑しくも当地は十字架の聖者に祈りを捧げる宗教を、国教にしているのだ。院長にすら、いささかの良心はある。そ
して、院長はフィオナの目を見てしまった。
 それが、とどめだった。
 美しい、青い、しかし深い深い奈落のような悲しみを湛えた目。
 そこから、涙が零れ落ちた。
「ここから追い出されたら、わたし、死んでしまいます」
 それは暗に、院長がフィオナを殺すのだ、と言っているようなものだ。
 そして院長は、それに耐えられるほどに精神が頑強ではなかった。
「…結果は出してもらうぞ。一週間後の選考を受けろ。それで駄目なら貴様の故郷にでも押し込めて置け」
 やっとそれだけ搾り出すと、踵を返して去っていった。
「だれが院長を聖者のようだって言ったって?」
 リリィが、呆れ顔でフィオナをみやる。
 院長の評判は、お世辞にも良くない。
 高慢で自己完結。魔術師の典型のハイエンド。
 これで人に好かれるのは無理がある、と言うほどである。
「だって、あの人、姉さまのことも私の事も悪く言い過ぎです」
「――フィオナ、今、姉さまって?」
「えぇ、よろしくお願いしますリリィ姉さま。わたし、とりあえずあの人の鼻をあかしてみたいです」
 にっこりと笑うフィオナの顔を見て、先ほどの涙は嘘だったとリリィには分かった。
 ――全く、大した娘だ。
 悲しみと絶望の果てに、悲しみを終らせる声と、絶望を打ち砕く絶望の絶望を見たとき、人はどうなるのか。
 リリィは、義母に救われた時の自分の事を思い出していた。
 自分も、こんな風だったか。
 大魔術師に対して啖呵を切るような、このとんでもない度胸を持っていたのだろうか。
 しばらく姉や妹の顔を思い出して、苦笑する。
 あぁ、そうだ。みんなこんなだったな。あたしも含めて。
 この妹は大成するな、とリリィは思った。


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